すなわち君の受験勉強法は端的に間違っている

才能でも根性でも運でもなく、「考え方」と「適量の努力」で受験に合格するための戦略的思考法

勉強しているのに成績が伸びない人は、理解と記憶の「自己判定」が甘い

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受験勉強とは「理解」と「記憶」の積み重ねである

受験勉強の基本は、「理解」と「記憶」の二段階です。本当ならばここに「表現」を加えたいところですが、大学受験までのレベルでそこまで求められることはあまりありません。なぜならば「表現」に関しては、大人数を短期間で、かつ平等に採点するのがひどく難しいからです。

たとえば慶應大学の小論文のように、一見「自己表現」を求めているような形式の出題も一部ありますが、それも本当のところは課題文の読解と要約がメインで、持論を展開する余地はあまり用意されていません。むしろ持論に文字数を割きすぎると、課題文の読解を放棄しているように見えてしまい、失点する危険性が上がります。これはつまり、受験生には勉強における「表現」以前の段階、つまり「理解」と「記憶」が第一に求められているということです。

伸びる受験生と伸び悩む受験生の決定的な「違い」とは?

これまでにも書いてきましたが、受験勉強とは「わからないこと」を「わかること」に変え、「知らないこと」を「知っていること」に変えていく作業です。それをしっかりと積み重ねていけば、成績は自然と上がっていくものです。

しかし一方で、周囲と同じくらい勉強しているにもかかわらず、成績が伸び悩む受験生もいます。いや客観的に考えてみると、順調に偏差値が上昇曲線を描いてゆく受験生のほうがむしろ少数派で、伸び悩んでいる人のほうがデフォルトの状況であると言うべきかもしれません。「全員の偏差値が上がる」という状態は、システム的にあり得ないわけですから。自分が多少伸びていても、周りがそれ以上に伸びていれば、偏差値も合格率もむしろ下がってしまうことになります。

そのように伸び悩んでしまう受験生と、順調に伸びてゆく受験生は、いったい何が違うのか? もちろんそれには様々な原因が考えられますが、両者のあいだに見られる最も大きな「違い」とは、普段の勉強における「自己判定の厳しさ」の違いです。

勉強においてもっとも障害となるのは、「その気になっている」状態です。これは調子に乗っているという意味ではなく、「わかった気になっている(が、実はわかっていない)」「憶えた気になっている(が、うろ覚えでしかない)」といった意味での「気になっている」状態のことを指します。

理解と記憶の「自己判定」の甘さが、大いなる非効率を招く

先ほども言いましたが、勉強の基本とは、「わからないこと」を「わかること」に、「知らないこと」を「知っていること」に変えていくことです。それにはその前段階として、「わかること」と「わからないこと」を、「憶えていること」と「憶えていないこと」をハッキリと選別する作業が必要となってきます。しかしこの判定が甘かったとしたら、いったいどのようなことが起こるでしょうか?

たとえば「わかること」を「わからないこと」だと思っている場合は、まだしもリスクが少ないと言えます。しかしすでにわかっていることをまた勉強することになるため、時間的な無駄が多くなり、効率的とは言えません。「憶えていること」を「憶えていないこと」だと思っている場合にも、同様な無駄が発生します。

そしてやはり大きな問題となるのは、「本当はわかっていないこと」を「わかったこと」としてカウントし、「うろ憶えでしかないこと」を「憶えたこと」に入れてしまっているケースです。

ペーパーテストにおいて、「7割の正解」は「不正解」と同じ

入学試験をはじめとするペーパーテストの残酷さというのは、「7割方わかっていること」が「不正解」と判定されてしまうところにあります対面で話をする場合には、わりとアバウトな知識でも、相手の助け船によって話がスムーズに進むことが珍しくありません。人名や年号を少し間違えても、あるいは内容に多少の誤情報が混じっていても、その主旨はさほど劣化することなく伝わるものです。

しかしこと入試問題となると、様相はまったく異なります。歴史の年号は1年間違えようと100年間違えようと同じく不正解になってしまいますし、現代文で「内容的にはほとんど合っているが、本文に書かれていない主張が数文字だけ含まれている選択肢」を選んでしまえば、即座に不正解とみなされてしまいます。

「そうはいっても、難関校レベルだと、逆に年号を単純に訊いてくるような問題は出てこないから大丈夫」

そんな風に高をくくっている人もいるかと思いますが、それは問題の表面的な形式にすっかり騙されてしまっています。たとえば「以下の出来事を年代順に並べなさい」という歴史問題が出題された場合、うっかり「年号はうろ覚えでもなんとなく答えられそうだな」と思ってしまいがちですが、いざ取り組んでみると1~2年しか差のない出来事が紛れ込んでおり、結果的に「あらゆる年号を正確に記憶していないと正解できない問題」であったりすることがよくあります。

つまりこれはむしろ、「年号を正確に憶えているか」+「一連の出来事の流れを理解しているか」を同時に試す一石二鳥的な問題であるのです。形式的には後者のみを訊いているようでありながら、その前提としての前者を求められてもいるのです。

難関校レベルでは、このように「問題文の表現と問うている本質が異なる」問題や、「一問で複数の知識を立体的に試してくる」問題が数多く出題されます。そうなったときに何よりも必要となってくるのが、その項目に関する「完全な理解」と「正確な知識」です。逆にいえば、7割方くらいの理解や記憶は、無知と同様でありまったく役に立たないということです。

理解と記憶の「正確な自己判定」が、実戦で使える「正確な知識」を生む

これはけっして、「すべての知識を、完璧に身につけろ」という無茶ぶりをしているのではありません。そんなことは到底不可能であるからです。

ならば受験生は何をやるべきか? それは「必要な量の知識を見極め、それに関してはひとつひとつ完璧に身につけていく」ということです。そのためにはまず、「本当に身についているのかどうか」の判定を、常に厳しく下していく姿勢が必要となります。

わかっているようで本当はわかっていないかもしれない「怪しい知識」に関しては、後回しにせずすぐに調べてしっかりと固めてしまう。憶えているようで憶えていないかもしれない「うろ憶えの知識」に対しては、定期的にしつこく確認作業をしていく。

そうやってひとつひとつの知識の精度を上げていくことで、取れる点数を確実に取っていくという作業の積み重ねだけが、着実に成績を向上させてくれるのです


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