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すなわち君の受験勉強法は端的に間違っている

才能でも根性でも運でもなく、「考え方」と「適量の努力」で受験に合格するための戦略的思考法

「なんとなく」をやめれば成績は自動的に伸びる

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あらゆる努力を台なしにする「なんとなく」の圧倒的な魔力

「受験」というのはひとことで言えば、「すべてを数値化して評価する/されるシステム」です。試験を課す学校側は、あらゆる項目において白黒はっきりつけていかなければ、生徒を選別することができません。

そういった明確なルールの範囲内で闘う以上、我々が日常生活において駆使している「なんとなく」という曖昧な感覚は、受験勉強の足を引っ張るだけでなく、あらゆる努力を台なしにするほどに圧倒的な力を持っています。

「なんとなくの正解」は本質的には「不正解」である

たとえば普段問題集をやっているときに、確信は持てないがなんとなくフィーリングで選んだ選択肢が正解であった場合、それはたしかに結果として正解であることに間違いはありません。しかしあなたが受験生ならば、それを本質的には「完全な不正解」と見なさなければなりません。

なぜならばそのあと施すべき対処に、不正解のときと同じ手順が求められるからです。「曖昧な正解」と「不正解」は、いずれも「フォローが必要である」という意味において、まったく同質かつ同レベルの「失策」であるわけです。


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必要なのは「今の正解」よりも「未来の正解」

問題に不正解であった場合と同様に、確信を持って正解を選べなかった原因を探り、足りない知識を補うことで、次に同じ問題に遭遇した際には自信を持って答えられる状態にすること。そこまでやらない限り、勉強する意味などまったくないといっても過言ではありません。

重要なのは「今の正解」ではなく、「この先同じような問題に出遭ったときコンスタントに正解すること」のほうですから、なんとなく正解したことに満足して次へ進んでしまうことは、問題に取り組んだそれまでのプロセスを台なしにし、成長を完全に放棄することを意味します。

「正解」にもいろいろな「正解」がある

つまり結果としては同じ正解であっても、そこには「完璧な正解」と「なんとなくの正解」という二種類の正解があり、後者には不正解に対するのと同様の手当てが必要不可欠であるということです。

そしてさらに細かく分けるならば、同じ「なんとなくの正解」であっても、「理解はできたが記憶事項が曖昧な正解」と「丸暗記しているが理解できていない正解」では対処法が異なりますし、「理解も記憶もしていないフィーリングによる正解」や「単なる幸運による正解」に至っては、完全に不正解として扱う必要があるのは言うまでもありません。

これは過去問を解いた際の感触や模試の成績表などにも言えることで、「たまたま得意な範囲が出た」とか「悩んだところが運良く当たっていた」といった「なんとなく」の要素による成績の向上は、きちんと差し引いて自己評価を修正したほうが良いでしょう。

人間のすることである以上、原因と結果の間に「運」や「勘」などのカウント不能な要素が混じるのは必然ですが、普段からそんな不確定要素に頼っていると、肝心な自分自身の現在地を見失うことになります。

「正解の中の不正解」を見出せるかどうかが、のちに成績の決定的な「差」となって表れる

受験勉強とは基本的に「間違えた問題をひとつずつ解けた問題に変えていく作業」であり、それを続けていれば成績は自動的に上がります。そして「間違えた問題」だけではなく、実はこのように「解けた問題」の中にも「間違えた問題」に相当する課題が潜んでいることが少なくないのです。

特に模試などの場合、正解を確認した喜びや安堵から、この「正解の中の不正解」を見出す作業を怠り、「結果的に間違えた問題だけを見直す」というだけの人が結構多いのではないかと思います。

逆に言えば成績レベルの差とは、そこまで徹底して「なんとなく」の要素を排除する姿勢を貫けるかどうかの差であり、また「それだけの差でしかない」とも言うことができます。

個々の部品の精度が飛行機や自動車など大きな機械全体の品質を支えているように、「なんとなく」という不純物を排してひとつひとつの作業精度を高めていくことが、のちに決定的な成績の「差」となって数字に表れてくることになります。


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