すなわち君の受験勉強法は端的に間違っている

才能でも根性でも運でもなく、「考え方」と「適量の努力」で受験に合格するための戦略的思考法

成績が伸び悩む受験生は「法則」の学習を軽んじている

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「法則」を軽視した学習は、結果遠回りになる

最近は特に、「英文法をやる暇があったら、ひとつでも多く英単語や英熟語を覚えたほうが良い」というせっかちな風潮があるような気がします。おそらくそれは、文法中心の受験英語が、結果として実践的英会話能力の向上に繋がっていない、という結果から逆算された価値観でしょう。

しかしもしその方法を取るのならば、見たことのない英単語・英熟語がひとつもなくなるくらいまで徹底的に憶え尽くし、ネイティヴ並みの頻度で英文を毎日読みこなさない限り、受験英語に対応することは難しくなります

「法則」をマスターすることで、憶えることを少なくできる

そもそも法則をマスターすることのメリットを、皆さん考えたことがあるでしょうか。法則は、別に物好きな学者が理屈をこねくり回すために存在しているわけではありません。それは当然「役に立つ」から存在しているわけです。では何の役に立つのか?

それはこと受験においては、「法則をマスターすると、憶えることを減らすことができる」ということです。より正確にいうならば、「憶えていないことにも対応することができる」ということになるでしょうか。

「高度な語彙力」を必要とする問題が、必ずしも「高度な語彙力」を求めているわけではない

よく難関大レベルの入試で、「この学部の入試問題では高度な語彙力が要求される」というような言われ方をしますが、これを真に受けると大変なことになります。そういった大学の狙いは、けっして受験生に驚異的な記憶力を求めているのではなく、むしろ「わからない単語に出あってもひるまずに、粘り強く考え抜くことで答えを導き出す能力」を求めているのですから。

そしてその「粘り強く考え抜く」過程において必要になってくるのが、安定した「法則」というものです。文法という法則を知っていれば、わからない単語が含まれた文章であっても意味を限定して類推していくことができますし、単語の構成自体にもまた、法則というものがあります。

大学が本当に求めているのは、「法則を理解し運用する力」

それらすでにマスターしている法則を適材適所に当てはめていくことで問題を解決していくというのが、受験において最も求められている「本当の能力」です。

単語や熟語をいくらたくさん憶えていても、そこに含まれている法則性を理解していなければ、知らない単語・熟語に出あった場合に太刀打ちできません。しかしそこに法則を当てはめて構造的に読み解くことができれば、冷静に答えを導き出すことができます。

そして難解大であればあるほど、入試問題は単純記憶では解けないようになっています。たとえば下線部の英単語の意味を問われている場合、その単語の持っているいくつかの意味を知っていたとしても、そのうちのどれが正解かというのは、文法によって文章の構造を読み解かない限り特定できないようになっている、というように。

つまりそのレベルにおいては、「単語の意味を知っている」という単純記憶は、そのまま正解というわけではなく、「数あるヒントのひとつ」に過ぎないわけです。本当に試されているのは、どの場面にどの法則を当てはめていくか、そしてそれをどう運用していくかという部分です。そのためにはまず、法則をしっかりと理解していること、そしてそれを適材適所に当てはめて応用する訓練が必要になってきます。

「法則」とはラクをするための便利な「道具」である

勉強を単純作業だと決めつけて、ただやみくもに時間と労力ばかりかけて単語や熟語ばかり憶えている受験生が伸び悩むのは、このように「本当は何を試されているのか」がわかっていないからです。上位校の入試問題は、「単に知っていれば正解できる問題」だけに全部答えても、合格できないようにちゃんと計算して作られています。

法則を理解することは、どの教科においても間違いなく勉強の軸となります。法則をマスターすることで、知らないことに対しても、確実に考える糸口を見つけることができる。法則とは面倒なものではなく、むしろラクをするための道具なのです。

特に成績が不安定で伸び悩んでいる受験生は、やみくもに単純記憶を増やすのではなく、いったん「法則」という強力な武器を取りに戻ることを、強く推奨します。


exam.hateblo.jp

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国語現代文を得点源にする方法 vol.1~センスなんていらない~

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「現代文=センス」神話に騙されてはいけない

数ある入試科目の中でも、特に国語現代文は「センス」や「圧倒的な読書量」が求められ、もっとも「短期間で勉強の成果が出にくい」科目だと思われている節があります。しかしこれは大きな間違いです。

もし現代文が本当にそのような「センス」を要求する科目だとしたら、はたしてそのような感覚的でアバウトな能力を、試験によって数値化/採点することができるでしょうか?

つまり、たとえどんなに根本的なセンスが問われる科目であっても、試験という形で出題されるからには、必ず「採点可能な形」に、つまりは「努力が報われる形」に最適化されているということです。

現代文読解に必要なのは「センス」ではなく「コツ」である

たとえば、これまで現代文読解に必要だとされてきた「センス」を「コツ」と単に言い替えてみるだけで、途端にこの科目が短期間で結果を出しやすい科目に思われてくるはずです。求められているのは「感覚的なセンス」ではなく、「具体的な技術であり方法」だということです。

人は勝算が見えない場合、その敗因を「センス」のひと言で片づけたがるものです。しかしこういう場合に使われる「センス」という言葉には、まったく意味がありません。単に「なんだかわからない何か」を総称しているだけで、それはたとえば同じく「なんだかわからない何か」をひとくくりにする「超能力」という言葉とあまり変わりありません。

しかしそんな人知を越えた「超能力」を客観的に採点できる人などどこにもいません。その優劣を判断できるとすれば、それは「手品」のように技術的な側面に限られます。どちらも同じ超常現象に見えるかもしれませんが、少なくとも後者は「なんだかわからない何か」などではなく、タネも仕掛けもある具体的な「技」と「方法」です。

「知っていること」ばかりが出題される科目は現代文だけ

そして我々は、普段何気ない文章を読むときでさえも、すでに日本語読解のための具体的な「技術と方法」を駆使しています。あとはそれを、「意識的に使いこなせるかどうか」の違いです。たとえ運動能力が高くても、それをしかるべきタイミングと方向で、適材適所で使えなければ記録にはつながらないように、能力には「使い方」というものがあります。

逆に言えば、現代文という科目で試されているのは、基本的に国語という能力の「使い方」だけだということです。他の多くの科目においては、まず前提となる知識があるかどうか、つまり物事を「知っているかどうか」が試されますが、現代文の場合は一部の漢字/用語問題を除けば、基本的に「知っていること」ばかりが出題されます。

たとえば日本史で習っていない箇所が問題文に出てきたり、英語で知らない単語だらけの長文を読まされたらさっぱり意味がわからないと思いますが、現代文で読んだことのない文章が出てきても、まったく意味がわからないということはないはずです。

「知らないことを知ること」のみが勉強ではない

受験生の中には、「勉強」というものの本質を「知らないことを知ること」だと捉えている人が少なくないと思います。たしかに多くの科目では、知らないことを知ること、つまり暗記して知識をつけていくことで、成績を上げていくことができます。

そして普段勉強をそのように狭く捉えている人が、現代文対策に何をやればいいのかわからない、現代文は所詮センスである、と決めつけてお手上げ状態になってしまうのは、ある意味当然のことかもしれません。なぜならば現代文の勉強とは、「知らないことを知ること」ではなく、「知っていることをどう使うか」という方法を身につけることだからです。

現代文が得意な人も苦手な人も、持っている武器は同じ

得意な人にとって、現代文が最大の楽勝科目であるのは、すでに「日本語という基礎知識」を、自分が武器として持っていると感じているからです。

反対に、苦手な人にとって現代文が対策不可能な科目に思えるのは、「日本語という基礎知識をすでに自分が持っているにもかかわらず太刀打ちできないということは、これ以上武器を増やしたり強化しても勝てないのではないか」と思ってしまうからです。

そしてこの苦手な人の感覚は、ある意味正しいと言えます。なぜならば、少なくとも大学受験レベルにおける現代文読解の能力とは、武器の問題ではないからです。

実のところ現代文が得意な人も苦手な人も、持っている武器(=日本語)の量や質に、さほどの違いはありません。もし持っている武器が一本の剣であるとするならば、両者の決定的な違いは武器そのものの違いではなく、それを操る「剣術」のレベルの違いです。

現代文が苦手な人は、日本語という武器をやみくもに振り回している

現代文の得意な人が「すでに自分は充分な武器を持っている」と感じるのは、実は武器そのものに満足しているのではなく、それを操る有効な「剣術」がすでに身についているからです。

そして現代文の苦手な人が「自分には充分な武器がない」と感じるのもまた、同じく武器の問題ではなく、その武器を生かす「剣術」を磨いていないからです。

現代文問題ならではの「方法=約束事」をマスターすること

ここで言う「剣術」とは、もちろん勉強における「方法」にあたります。とはいえそれは、実際の「剣術」のように、命を賭して修業するような厳格な道ではありません。その方法とは、現代文という科目の本質を、つまり文章というものがどのように書かれ、どのように読まれ、どのように出題される約束になっているのかということを、丁寧に理解していくというだけのことです。

それこそ、今後僕がここに書いていく文章を読むことさえできれば、現代文の読解力/解答力は自動的に伸びていくはずです。以後、現代文攻略のより具体的な方法について、書いていくつもりです。

まずは少なくともここまで読むことができた人は、すでに自分には現代文に必要な武器が充分に備わっていると思ってください。あとは「方法」だけです。

勉強しているのに成績が伸びない人は、理解と記憶の「自己判定」が甘い

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受験勉強とは「理解」と「記憶」の積み重ねである

受験勉強の基本は、「理解」と「記憶」の二段階です。本当ならばここに「表現」を加えたいところですが、大学受験までのレベルでそこまで求められることはあまりありません。なぜならば「表現」に関しては、大人数を短期間で、かつ平等に採点するのがひどく難しいからです。

たとえば慶應大学の小論文のように、一見「自己表現」を求めているような形式の出題も一部ありますが、それも本当のところは課題文の読解と要約がメインで、持論を展開する余地はあまり用意されていません。むしろ持論に文字数を割きすぎると、課題文の読解を放棄しているように見えてしまい、失点する危険性が上がります。これはつまり、受験生には勉強における「表現」以前の段階、つまり「理解」と「記憶」が第一に求められているということです。

伸びる受験生と伸び悩む受験生の決定的な「違い」とは?

これまでにも書いてきましたが、受験勉強とは「わからないこと」を「わかること」に変え、「知らないこと」を「知っていること」に変えていく作業です。それをしっかりと積み重ねていけば、成績は自然と上がっていくものです。

しかし一方で、周囲と同じくらい勉強しているにもかかわらず、成績が伸び悩む受験生もいます。いや客観的に考えてみると、順調に偏差値が上昇曲線を描いてゆく受験生のほうがむしろ少数派で、伸び悩んでいる人のほうがデフォルトの状況であると言うべきかもしれません。「全員の偏差値が上がる」という状態は、システム的にあり得ないわけですから。自分が多少伸びていても、周りがそれ以上に伸びていれば、偏差値も合格率もむしろ下がってしまうことになります。

そのように伸び悩んでしまう受験生と、順調に伸びてゆく受験生は、いったい何が違うのか? もちろんそれには様々な原因が考えられますが、両者のあいだに見られる最も大きな「違い」とは、普段の勉強における「自己判定の厳しさ」の違いです。

勉強においてもっとも障害となるのは、「その気になっている」状態です。これは調子に乗っているという意味ではなく、「わかった気になっている(が、実はわかっていない)」「憶えた気になっている(が、うろ覚えでしかない)」といった意味での「気になっている」状態のことを指します。

理解と記憶の「自己判定」の甘さが、大いなる非効率を招く

先ほども言いましたが、勉強の基本とは、「わからないこと」を「わかること」に、「知らないこと」を「知っていること」に変えていくことです。それにはその前段階として、「わかること」と「わからないこと」を、「憶えていること」と「憶えていないこと」をハッキリと選別する作業が必要となってきます。しかしこの判定が甘かったとしたら、いったいどのようなことが起こるでしょうか?

たとえば「わかること」を「わからないこと」だと思っている場合は、まだしもリスクが少ないと言えます。しかしすでにわかっていることをまた勉強することになるため、時間的な無駄が多くなり、効率的とは言えません。「憶えていること」を「憶えていないこと」だと思っている場合にも、同様な無駄が発生します。

そしてやはり大きな問題となるのは、「本当はわかっていないこと」を「わかったこと」としてカウントし、「うろ憶えでしかないこと」を「憶えたこと」に入れてしまっているケースです。

ペーパーテストにおいて、「7割の正解」は「不正解」と同じ

入学試験をはじめとするペーパーテストの残酷さというのは、「7割方わかっていること」が「不正解」と判定されてしまうところにあります対面で話をする場合には、わりとアバウトな知識でも、相手の助け船によって話がスムーズに進むことが珍しくありません。人名や年号を少し間違えても、あるいは内容に多少の誤情報が混じっていても、その主旨はさほど劣化することなく伝わるものです。

しかしこと入試問題となると、様相はまったく異なります。歴史の年号は1年間違えようと100年間違えようと同じく不正解になってしまいますし、現代文で「内容的にはほとんど合っているが、本文に書かれていない主張が数文字だけ含まれている選択肢」を選んでしまえば、即座に不正解とみなされてしまいます。

「そうはいっても、難関校レベルだと、逆に年号を単純に訊いてくるような問題は出てこないから大丈夫」

そんな風に高をくくっている人もいるかと思いますが、それは問題の表面的な形式にすっかり騙されてしまっています。たとえば「以下の出来事を年代順に並べなさい」という歴史問題が出題された場合、うっかり「年号はうろ覚えでもなんとなく答えられそうだな」と思ってしまいがちですが、いざ取り組んでみると1~2年しか差のない出来事が紛れ込んでおり、結果的に「あらゆる年号を正確に記憶していないと正解できない問題」であったりすることがよくあります。

つまりこれはむしろ、「年号を正確に憶えているか」+「一連の出来事の流れを理解しているか」を同時に試す一石二鳥的な問題であるのです。形式的には後者のみを訊いているようでありながら、その前提としての前者を求められてもいるのです。

難関校レベルでは、このように「問題文の表現と問うている本質が異なる」問題や、「一問で複数の知識を立体的に試してくる」問題が数多く出題されます。そうなったときに何よりも必要となってくるのが、その項目に関する「完全な理解」と「正確な知識」です。逆にいえば、7割方くらいの理解や記憶は、無知と同様でありまったく役に立たないということです。

理解と記憶の「正確な自己判定」が、実戦で使える「正確な知識」を生む

これはけっして、「すべての知識を、完璧に身につけろ」という無茶ぶりをしているのではありません。そんなことは到底不可能であるからです。

ならば受験生は何をやるべきか? それは「必要な量の知識を見極め、それに関してはひとつひとつ完璧に身につけていく」ということです。そのためにはまず、「本当に身についているのかどうか」の判定を、常に厳しく下していく姿勢が必要となります。

わかっているようで本当はわかっていないかもしれない「怪しい知識」に関しては、後回しにせずすぐに調べてしっかりと固めてしまう。憶えているようで憶えていないかもしれない「うろ憶えの知識」に対しては、定期的にしつこく確認作業をしていく。

そうやってひとつひとつの知識の精度を上げていくことで、取れる点数を確実に取っていくという作業の積み重ねだけが、着実に成績を向上させてくれるのです


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